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寄稿文

ご寄稿文を掲載させていただきました (04/11/24 掲載)M

■『お母さん』と呼ばれて

(グループホーム「タンポポ」利用者 母 吉田 優子)

 私の子は3歳の時に自閉症と言われ、「自分の手で育てられないかもしれない」と医者に言われた26歳の男の子です。彼は今、札幌にある『グループホームタンポポ』で生活しています。彼の名前は『聖』、私の大切な宝物です。

 彼は昭和52年12月27日に私の子として生まれました。生まれたときは真っ赤で、まるで三角おむすびのような顔をした、まるまる太った元気な子でした。私も主人も1歳10ヶ月先輩のお兄ちゃんも、一緒にとても喜びました。主人は「今日こそは、今日こそは…」と言いながら毎日名前を考え続けました。そしてある日、「決まったよ」と主人が私に言いました。「クリスマスイブに生まれる予定だったから、聖書の『聖』で『ひじり』だ」と話してくれました。私は「女の子の名前みたい」と言いながらも、心の中で『あなたは今日から聖よ…よろしくね』とつぶやいていました。
 聖は、すくすくと元気に育ちました。夜泣きが激しく動きも盛んでじっとしていない子でしたが、発語も順調で「パパ」「ママ」「ジーヤン」「バーヤン」「モモ」など単語が増え始めていました。ところが、成長するうちに言葉がなくなり、多動もひどく、家の中を走り回りポンポンと跳ねてばかりでした。私の顔を見ても、知らんぷりして通り過ぎていきました。目線も合うことがなく、名前を呼んでも私の所には来ることもありませんでした。 3歳頃には既に声すら出さなくなり、動きもピークに達していました。

 ある日、テレビを見ていると、耳の不自由な子どもが主役のドラマを放映していました。  その瞬間、聖が言葉を発さないのは耳が聞こえないからではないかと考えました。翌日、聖を連れて耳鼻科に駆け込み、検査をしてもらいましたが、その結果は『異常なし』と予想を裏切るものでした。紹介状をもらって市立病院で様々な精密検査をしてもらいましたが、結果は一緒でした。むしろ身体にはどこにも異常がなく年相応に成長していると聞かされ、私を含め家族全員が「どうして」という思いで混乱し、耐えがたい不安に駆られていました。

 その後しばらくして、ある病院を紹介されました。『静療院』という精神科の病院でした。 検査を受け、程なく医者に呼ばれました。「自閉気味です」という言葉を聞かされ、聞いたことのないその言葉を不思議に思いました。「自閉気味?」と聞き返すと、医者は「しいて言えば『自閉症』です」と言ったのです。それでもまだ医者の言葉がよく理解できず、何らかの病名のようなことを言ったのだから、それを治す方法を聞かなければと思い、「何か薬を飲むと治るんですか?」と聞き返しました。ところが医者は無言のまま何も話しません。
「手術をすれば治るんですか?」と念を押すように聞くと、医者は重い口を開きました。 「治るとも治らないとも言えません」 その言葉で、私は頭の中が真っ白になり、突き落とされたかのような感覚が襲いました。「どうすればいいんですか?」「何をすればいいんですか?」と矢継ぎ早に問いつめる私たちに、医者は「もしかすると自分で育てられないかもしれません」と沈痛な面持ちで言うばかりでした。今になって思えば、医者がはっきりした口調で言わなかったのは、あまりにショックを受けている私たちに対する、せめてもの思いやりだったのかもしれません。
 それからどのように帰ったか記憶がありません。もしかしたら、車の中で無言のまま長い時間が過ぎたのかもしれません。ただ「もしかすると自分の手で育てられないかもしれません…それほど決して症状は軽くありません」という言葉だけは覚えています。ただただ涙だけが出てくる日が3日ほど続きました。聖は、相変わらず声をかけても振り返らず、目線も合わず、ただ私の前を通り過ぎていくだけでした。手だてのないまま時が過ぎ、ただ薬を飲む我が子を見て「やっぱりこの子は病気なんだ」と思い知らされ、何もわかってやれないつらさを感じました。我が子がパニックを起こすたび、何もできない自分に腹が立ちました。「それでも母親か」と自分を責める日々が続きました。

 周囲の協力もあって、幼稚園・小学校と明るく元気に過ごしてきました。それなりの成長もあったと思います。ところが中学生になった頃に聖の態度が急変しました。その原因は、『自閉症は嫌い』と自認する担任の先生からのいじめでした。しかし、母である私は当初いじめの事実を知らず、毎日聖を学校へ送り届けていました。制服のズボンを濡らし、Yシャツのボタンを飛ばし、声をかけると鬼の形相で向かってきました。カバンを放り投げることもありましたが、それでも「どうにかして学校に行かせなければ」と必死になっていました。今思えば、これらは「学校でいじめられているんだよ」「行きたくないよ」という聖のSOSだったのだと思いますが、当時の私には知るよしもありませんでした。学校から帰ってくるとすぐに暴れ出し、声を張り上げて他害を繰り返しました。私は何がなにやら全く理解できず、変わっていく我が子にただ絶望し、家族全員が生傷の絶えない日々をどのように過ごせばよいかを考えるのが精一杯でした。これまで出ていた声も無くなり目はらんらんと光り、落ち着く様子も無くなり、なぜこんな事になってしまったのかと自分を責め、時には「私は聖の何なのだろうか」と自問自答する日々が続きました。また、自分を守る為に他害を覚えてしまった聖も、その事で彼自身苦しむことになったと思います。

 その地獄のような中学校生活も終わりを迎え、周りの協力や優しさを受けて、ゆっくりではあっても確実に聖の心の傷は癒されていきました。あの鋭かった目の光も消え、優しい目に変わっていきました。時折フラッシュバックを起こしたものの、その頻度も日を追うごとに少なくなっていきました。ただ、私の心の中にはまだ『母と呼んでもらえない』という苦しみが残ったままでした。もしかしたら一生母と呼んでもらえないかもしれない不安とそれでも母であり続けなければならないという思い、そして何よりもこの子を産んだという変えることのできない事実の狭間で身動きがとれず、今にも押しつぶされてしまいそうな日々は、まだ続いていました。

 その後、聖はハッピーイールドの前身である『たんぽぽ作業所』に通いました。これまでの遅れを取り戻すかのように、落ち着きや言葉、優しい眼差し、人間らしさを取り戻していきました。それは、たんぽぽ作業所から『ハッピーイールド』になっても変わることはありませんでした。また、「グループホームたんぽぽの家」での家庭的な雰囲気にとけ込むことで、笑い声もたくさん出てくるようになりました。単語も増え、お友達の名前も時折言えるようになりました。
 そのような中で、私自身も落ち着きを取り戻しました。子どもたちのいない時にグループホームへ行き、他のお母さん方といろいろとお話をしたり石けん作りをしたりしながら、子どもの部屋を片づけています。家の近くにあるグループホームは、私にとって子どもと共にいられる場所です。子どもたちが帰ってくる前に、私たち親は掃除などすべてのことを終えてグループホームから出なければならないのですが、それでも「お母さんはここにいるよ」と温もりを残して帰ります。

 グループホームでの数日間を過ごし土曜日の朝になると、チャイムが鳴ってドアが勢いよく開かれ、聖が笑いながら部屋の中に飛び込んできます。そんなある日、いつものようにチャイムを鳴らして勢いよくドアを開けて聖が帰ってくると、いつにない笑顔で私の目を見て「お母さん」と呼びました。一瞬、驚きで何がなんだかわからなくなりました。 あまりに急のことなので、なんと返事をしたらよいかわかりませんでした。とにかく何か返事をしなければという思いで、とっさに「はい」と返事をしました。すると、今度は私の目を見てもう一度「お母さん」と呼びました。「はい!」と言うと、確かめるかのようにまた「お母さん」と呼んできます。その声もますます大きく、力強くなってきました。その言葉のやりとりの中で、私は「やっと『お母さん』になれた」という嬉しさがこみ上げてきました。 嬉しさのあまり、「はい」と答えながら涙が出てきました。 初めての言葉のやりとりは5回ほどで終わりましたが、それでも、私の心の中の霧を晴らすのには十分でした。

 医者に『自分で育てられないかもしれない』とまで言われただけに、私の手を離れて施設に入所することもやむを得ないと思っていました。しかし、私の手の届くグループホームで仲間と共に成長し言葉を次々と獲得していく聖を見ると、私もまた聖によって成長させられている気がしてむしろ幸せを感じています。家庭的なグループホームは、聖にとって『今までの生活を大きく崩さずに温かさを感じることのできる場所』なのだと思います。 そして私自身、このように自分の思いを文章にまとめることができるのは、これまで肩にのしかかっていた重荷から解放されつつあるからなのだと思っています。

 初めて『お母さん』と呼ばれたあの日のことは決して忘れることができません。そして、あの時の喜びを覚えている限り、私たち親子はずっと成長し続けることができると思います。そんな私たち親子を支えてくれた全ての方々に、心から『ありがとう』と言いたいと思います。そして、今まさに肩にのしかかった重荷と闘っているお母さん…決して負けないで。でも、時には力を抜いて周りを見渡してください。きっと我が子と一緒に心から『ありがとう』と言える日が来ますよ。

(掲載日 04/11/24)

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